昭和四十九年二月二十日 朝
X御理解 第十九節
金光大神は形無うなったら 来て呉れというところへ行ってやる
一心にお縋りし一心に真をつくして金光大神のお取り次ぎを頂く、そこに金光大神のお取り次ぎの働きと云うものが表はれて来る、それが金光教だと私は思うです。
ところが段々しんじんをするおかげを受ける、と自分が金光大神になった様な気持ちと云うわけでなかろうけれども金光大神のお取り次ぎを仰がず、只金光様と口には、云っておるお届けは頂いとる様であるけれども、一心の真を以てお取り次ぎ願はんから、そこに金光大神の働きと云うものが、薄うなって来る、無くなって来る、その頃から云うなら慢心が頭をもたげてくる。
その頃からおかげが云うなら、形のあかげはあっても、いわゆる本当の金光大神取り次ぎの働きと思はにゃ居れん程しに、なって来ない。
裏づけのないおかげと云うことになって来る、それがおかげ落としの元になる様なことがある。
勝てば官軍敗ければ賊軍ですかと云った様な言葉があります、どっちが良いかわからんけれども兎に角勝った方が官軍、信心もそうです、おかげを受けますとね、受けた方がやっぱりよか信心しとったと皆が云う様になるです、。
おかげを頂いとらん者を見ると信心がどこか間違っとるけんいつまでもおかげ頂き切らんと云った様な、賊軍視する向きがある。
おかげを受けますと、あぁあっちの信心はやっぱ立派ぢゃつたじゃろうと。
だからあぁいうおかげ受けなさったということになる、いうならば。
咲くまでは草と呼ばれる野菊かな。
である、私はその野菊と呼ばれ、いや雑草と呼ばれあれはほんなものじゃないといわれておる時こそが実は本当の信心だと思うですね、そこに一心の真を以て、金光大神のお取り次ぎを頂いて、行かなければ居られないという時なのです、ならもうおかげ受けたから、確かにおかげ受ける程しですから、間違ったとは思はれない人が今はあんなに言いよる、雑草の様に言いよるけん今に見ておれ本当な花を咲かせて見せるという様な、迫力を以て一心に信心をして。
野菊が咲いた、咲いた時にはじめて、あれは雑草じゃなかったばいなぁ、あれは本当のいう事になる、菊じゃつたなと言うてくれる頃からです、成程あれが賊軍じゃなかって官軍じゃつたと云はれる頃からです、そのいうならば官軍が、我儘をする様になる、私はこの辺のところをです、もう金光大神形が無うなったらどこにでも行ってやると仰るのはです、本当に来て頂いたら、そこに本当に金光大神取り次ぎのはたらきというものが表はれなければ嘘だと思うです。
それは心の面に頂く事もありましょう、形の面にも表はれて来ましょう、本当に金光様のおかげだとだからそのおかげでというその感謝の心がです、次の信心に、飛躍して行っておる様な、ものじゃなければ私は必ずその辺から、。
官軍は官軍か知れませんけど、官軍かまた賊軍視される様な、結果になって来ると思います。
大事なところです。
私は昨日先日の十八日の月次祭の教話を改めて昨日頂き直さして貰って、末永さんと二人でどうねこれがわかるかと、わたしが聞いとっても、難しいなぁと思うですけれどもこの御理解をそのくだり、くだりを玩味してここと信心は頂いて行かねばならんという風に、わかって行ったらたいした信心が出来るんだけどもね誰れもそのことがわかった様なわからん様な、顔でしておるが、あんただん大体わかったねと、昨日話したことでした。
本当にこれを例へば、三、四十分の教話でしたけれどもそれをひとくだりひとくだりをよく玩味させて貰うて、そういう信心に進まして頂こうという事になったら、本当に間違いのない素晴らしい信心が出来る様けれども只漠然とわかっている様な気がして、そしてわかった気がしておる、というのじゃなかろうかと云うてまあ末永さんと二人で話したことでした。
表書きはさほどむつかしい表書きはしとりませんけど、その内容の信心のいうならば難しいいうなら、素人向きでなくて、本当に玄人向きお互いがおかげだけは玄人向きのおかげだけは頂きたいと思うとでしょうか、だから信心もやはり、玄人にならなければ出来ん。
昨日、安東さんが二度目のお参りをして見えて、いろいろとお届けがあった信心のいわゆる中々感動家ですから、もう先生最近親先生先日からの御理解の中に、私は徳の亡者になると親先生が仰言った、もう一切をです、それが徳を受ける事のためならば、それをそれこそ、。
金の亡者という人達がです、始末倹約するだけではない、それが金になる事ならば、、それが例へそれを、悪いことであってもやってのけるのは金になることでさえあれば、これを金の亡者とこういう訳です。
私は徳の亡者になりたい、頂いておる徳というものがあるならば、減らす様なことは決してしないそしてこれが一分でも一厘でもお徳になるということであったら私は愈のときには子供でも犠牲にするという様な話を、致しましたですねえ皆さん、徳の亡者、それ以来私は一切をこれがお徳になるものならば私も徳の亡者になろうと思いますという、お届けがあった。
ああ素晴らしい事だなと素晴らしい事だけど一寸おかしいと思ったけどそういうお届けを感激いっぱいでお届けなさるですからまぁ黙ってお取り次ぎして頂いた、そして又暫くあちらで御理解を頂いて帰りがけにここに来て云はれるのです、親先生今朝方、朝の御祈念にお参りした時にこういうおしらせを頂きました、今までは左側の方へ行っとたけれどもこれからは右の方にまわれというお知らせを頂いたそれで私が申しました、沢山の信者の中には様々のタイプがありますまあその例を以て申しました事ですけど、久富正義さん達の行く方というか生活の信条というかもう門内町内の人達が、あの人はとても立派。
金光様の信心しござるけん違うというて、この人を褒めない者はない位褒める、そすと同じ信心しょつても00さんの場合なんかです、ここはもう素晴らしい信心者として云はれるけれども、門内近所他の人達はどういうかと云うと。
信心しょつてあの人はもうといはれる様な、どうも合楽の傾向の中にですね、神様の方にだけは一生懸命に向けて行くけども、いわば隣近所、いわゆる信心のない者から見て成程と云はれる人が少ないことは、これは合楽の傾向だと思いますね。
そういう傾向があるです、だからそれが、あながち悪いのぢゃない、私ども、本当に修行のまっさい中というときには人が笑うたでしょう、悪口も云うたでしょう、借金を持っておっても、支払いはしない、しかも大きな事いうてから、必ずあんた家要るときには私が必ずちゃんと払はせて貰う、ごたるおかげ頂くのちいうた様な事をいうて、とても大坪さんなんて横着な人ぢゃあると云はれたに違いないです。
まぁそれだけの事ぢゃありませんけれども、隣近所つきあいですから、出来ない人があるのです、信心しよればです、もう信心しよらん者は、別なものの世界を視る様にせないで、やはり正義さんのような、それこそ隣近所からでも、立派な人だと云はれる様な信心を頂いて、合楽的な信心を頂いて鬼に金棒、ところが合楽的な信心は正義さんの場合今日は出来てない訳ですよ、だからそれが出来たときが、安東さんの場合それが反対信心は素晴らしい、けれども左の方へ、左の方と云うことは合楽、ということでしょうか。
もうとにかく合楽流で行きさえすれば良いという様な、行き方をして、右の方をおろそかにしておるから、。
右の方へ神様は、こんどは行けよということでしょう。
例へていうと先からお届けしたときに私は云はうかと思うたばってん申しませんでしたけどね、例へば徳を頂きなさった、だからその徳を減らしちゃならん、増やかすことなら徳の亡者になろうというて、それはもう親先生の信心なんだ、。
それをあなた方が例へばですよ、受けてあるがまあ受けてないとしてです、徳を受けてもいない者が減らさん減らさんというて私の真似したっちゃ、本なことが出来る筈がない、自分もう徳の亡者になると小愛らしいことをいうけん感動はする、感激はする、只空感激だ、。
おかげにつながらない、そして私は或る御信者さんのことを話した。
例へていうならばです、私は楷書をして、字を稽古するにしても、楷書それから、行書、そして草書で書き習うた、その草書のところではと楷書もせず、行書も稽古せずに、只親先生が書きござる、本な字ぢゃぃ何ぢゃわからん字をですからねくずしてあるだけくずしてあるのだから、ところの草書を見て、自分もそれを真似して書くけん、もう本なところもあるばってんしらごつもある、そして親先生といっちよん変らんごと書いちゃると云う様な人達もおるのです、合楽には、けども愈のときにはです、本当な稽古をしとらんから、楷書で書けというたっちゃ書きゃきらん、だからそういうときに、安東さん、あなたの信心は飛躍しすぎるごとあるねと云うて話したことでした。
これは安東さんぢゃない合楽の傾向です、いわゆる、飛躍しすぎる向きがあるです、それなら正義さんあたりの場合なんかは、もうそれこそ楷書で書いてもう、それはもう実際の上に、月次祭のお届け帖にあの人が書いとるのを見るともう、それこそ几帳面な、あの月次祭の、いそがしいときに一字一字、もう本当に楷書で書とるです、もう性格の通りです、だからそれだけですから、信心は進まない、行書ぢゃ書き切らん草書ぢゃ書ききらんと、だから草書を稽古をする様になり、行書を稽古する様になり、草書でかける様になったときに、私は正義さんの信心は素晴らしいだろう、。
安東さんは例へていうなら、草書はわたしがとを見ながら書きなさる、いわゆる、徳の亡者になろうごとあると、いうその素晴らしいことを云いなさるけど、ならこれを行書で書いてごらん草書で書いてごらんと云うたら書きゃきらんぢゃないか、。
安東さん教典百八十何ヵ条かの五ヵ条でも良いから、空暗記しきるのと申しました、で書ききるのち、もう他所の信者さん達はですねもうそれこそんなら、これを暗誦、暗記しとる人達がある、教会には一人二人位ありますよ、もう合楽の信心はね。
なら何日前からいただいておるなら御神訓なら御神訓でもよいから五ヵ条でも書いて見なさいと云うたら書きはきりません、そうぢゃろうがとそういう勉強はいっちよんしとらんそして徳の亡者になろうばっかり云うとってから、おかげ頂ける筈がなかぢゃんのと私が申しました、そしたらそれを裏づける様な話があるんです、帰られてから一時間ばかりしてから、息子さんの勇治君が参って来たです、もうその若いからですね、信心の焦点を間違えないです、或る意味で、私は御夫婦の信心よりも、御夫婦の信心があったからこそ、でしょうけれども筋が良いです、一つの問題を信心で解決しょうと取り組んでくるわけです、まぁそんないろいろなお話しをして合点が行っておかげを頂いてと、そして前後にです、先日からお母さんかお父さんかお夢を頂きなさった、それがそのお父さんと牛がどんどん追いかけて行きよるというのです、そしたら母がその追いかけて行きよる牛はあんたバイと言うた、勇治君が、それで二人で大笑いをしたことでした、。
例へばなら安東さんがです、お父さんば追いかけてお父さんば苦しめよるとは、それはほんとお母さんぢゃろう、と例へばいうとったら、すばらしかったです、ところがお父さんば追かけて苦しめるとはあんたバイち、ほんなこと僕でしょうかと云う訳です、さぁどうじゃろうかねけれどもいはれたからには、やっぱり僕がお父さんを苦しめよるという事実がないかと云うと、あるあろうがで、だから、それは大いに反省はしなければいけないけれども、。
それはあんたばいと云はれる、ところは、本当なことぢゃないと思うけどねと話したことですけどね、もうあんたは安東家のめぐりの固まりの様なもの、あんたが家の中をかき乱したり、苦しめたりしよると、牛ということは家のめぐりということでしょうけれどもはぁそのめぐりの固まりのごとあるとかお母さんぢゃろうのというたら、息子も、いや、お母さんばっかりじゃない、僕どんもぢゃろうと、段々わかってこにゃいけん、のだけれどもねとまあ、一時間前にお母さんのお取り次ぎさして頂いて、その後で、それを裏づけする様な、それが楷書で書いとらんから、行書で稽古しとらんから、いえばもう自分は徳の亡者になっとるつもりぢゃもんだから、自分のつはいっちょも間違いないと思うとる、そして、めぐりの固まりは息子の様な、表現をしたという話をです、。
私は今朝方から、お夢を頂いたいろいろ頂いたけれどもその一二を申しますと菊栄会それから総代会の方達らしい、総代会の方達は顔が見えている、菊栄会のは姿が見えてないけれども菊栄会も一緒に、私を一泊旅行に、温泉旅行に招待しておるというお夢があった、一晩泊ってあくる朝、朝風呂ども頂いて、その風呂場が調理場を横切って行かにゃならんだからその調理場を横切って行きよったら、もうそれは素晴らしい料理がどんどん出来よった。
そこで私が今朝のお食事には、私にもこういうのをつけて呉れと私が板場さんにいうたところが女中さん達が四、五人集まってから、ちょいと条件に及ばんこの人達ばかりは、小切るしここぎっといてから、たった五百円で、お泊めしとるとですよ、とあなた方は、それであなたこげなおご馳走ば、どうして付けけられますかと、もう私は満座の中で恥かいた、それは余分なところは私が払うけんよかろうもん、あぁそんならよかよございますたいというお夢であった。
次ぎにはね大変豪華な雰囲気のところ合楽の信者だということになってる、そんな人は合楽には、見当りませんけども、その人がもうその何か素晴らしい飾りものとも飲みものともわからない見事な豪華なそのそれが何百万もするというものらしいですそれでこれを売ってお供へすると云いよる、そして親先生も来て下さいと云うから、私も行って、その広々というのか、日本で見た事もない様な、素晴らしい大きな商店街に、一軒一軒、当たりをつけござる、これを買って呉れないかと、私は隅の方で聞きよると、あれを商売の掛け引きというとそれまでだけれども、もう嘘八百並べてから、それを売りつけようとしてござる、だからどの家に行ってもどの店に行っても、買い手がない、これが売れたらこれはお供へする、。
また私も豪華なものを見たり、店を通ったりはしよるわけです、あげな嘘いうちかりと私が云いよる。
ふと目がさめてから、これが合楽の信心だなと思いました、総代菊栄会の方達、招待受けて、一泊どまりで、温泉に行っている、そしてその私がおご馳走を頂きたいと云うたら、たった五百円位で泊まっとんなさるとにどうして、こげなおご馳走がつけられますか、と言えそれなら、私が手出しするから、私が出すから、出して呉れと云っておる様な、程度が今の合楽の少しは抜けた幹部の人達の信心姿と思いました、。
それが表はれておるのがこの合楽教会の御ヒレイの御ヒレイと云へば御ヒレイそう云う姿なのです、成程合楽には豪華も、お供へが沢山来る、けれどもそこにはね、そういう実のない真のない、ものが集まっておる、これはまぁ神様の御覧になった、合楽教会の現在のことであろうと思うのですけどです、神様の目でごらんになってのことでございましょうけれども、只これだけの人が助かる様になった、これだけ、他所にも集まらないものが、集まって来る様なおかげを頂いてといいよるけれどもその内容たるやは、私のいうならば、お夢の中で頂くいた様なものではなかろうか、これは成程、今までは合楽は雑草の様に云はれとった、ものがようやくここで花が咲いた、という感じやっぱり合楽の信心は本ものじゃつたと雑草というとった人達が、皆合楽を見直す様になった、これまでは生神金光大神御取り次ぎの働きによっておかげを頂いてがです、これが只合楽の御ヒレイだ合楽の勢いだというて、居ったらです、これはおかげ落とすことになるなぁと私は思いました、いうなら、此処までにおかげ頂いた参りましたその過程の信心が尊いのであって、金光大神のお取り次ぎの働きをそこに本当に頂いて、今日のおかげを頂いておる、。
今日までの信心が尊いのであって、今の現在私がしている信心はです、そういうことではなかろうかと思うです、これは愈改まってです。
生神金光大神取り次ぎの働きをです、そこに頂くことになりますからです、間違うとれば間違うとる、違がや違うとると、神様がまたお取り次ぎの、働きを表はして下さる、だろう、いうならまあ今日私がお夢を頂いたと云うことも、金光大神取り次ぎの働きが、今の合楽は一寸調子に乗り過ぎとるぞと、今までの信心は成程立派じゃつたかも知れんけども、少しいうならば、贅沢になって来たぞと少し調子が軽うなって来たぞと、お前が草書ばかりで書きよると信者はもう、行書やら草書やら稽古せんなりにお前の信心、の口真似だけする様になるぞと。
もう一つ頂いた、まだいろいろと頂いたんですよ、けど言葉に出せない様なことですから申しませんけど、久富繁雄さんが毎日足を揉んで下さってある、まあ今日は来ちゃなかけんお話しするのですけどね、こうして揉んで下さったところが、お尻だけがこんなに大きいですもん、体は小さうしとって、成程お前が繁雄さんの奉仕を毎日頂いて、お前だけは安楽だけどもね、段々繁雄さんが、俺でなければできんと云う位に段々思うてきて尻が重うなったということです、もう他のことには私は行かんでよか、もう親先生のお供やらこれだけをさせてもらえばと思うて信心が、抜けて来たと云うこと、例えばチョイトチョイトと云うたっちゃいつもハイとハイばっかり云うて立ち上がらんとはあれは、あんたばっかりは尻が重かと云うでしょう、そういう事だと思うた、。
これはもう本当に合楽の信心をもういっぺんです、あの苦しかった時代の信心に、生き生きと立ち返って、そして合楽の信心を再検討さしてもらって、いよいよ神様が今日お夢の中に頂いて、そういう様々な、こういう調子で、おかげを落とすぞと教えられたことを一つ本気で私どもが、もう一ぺん頂いて、云うならば楷書から、もう一ぺん仕直しという様な、おかげを取り次ぎの働きはそう云う風に今日は表はして下さった訳ですですからまだまだ脈があるわけです、此処で私どもが、総改まりに改まらせて頂いて、信心をさして頂くときに、愈合楽の御ヒレイの万々歳と云うことになって来ると思うのです、。
只上っ調子な人がです、まあ上っ調子な人と云うちゃおかしいですけどです、それこそこれが売れたら、お供えする、それはどこにもなかごたる豪華なもの、ばってそれを売りござる具合というものかもう、嘘八百並べ立ててから、そして連れのうて私も行きよるけん豪華な雰囲気だけは感じて行きよるずーっとそれが自分の様な、自分がおかげを頂いとる姿の様な、私が思い違いしたら、大変だぞと云ってあって下さると思うのです、。
なら安東さんの例を取りましたがです、信心さして頂いとるあんたどんが信心せんけんこげん苦しいばいと子供達に云うのぢゃなくてです安東さんにいはするならば、その追いかけて行きよる牛はそれは私ばいと例へばお母さんが云う位、な信心にです、徳の亡者もよいけれどもです、徳を受ける一つの前提というところが出来ていない、。
楷書からもう一ぺんやり直す、もう一ぺん行書を稽古しなおして、そして嘘ではない、本当の草書をかける願いを皆さんもかけて下さらなければならない今朝から頂きましたそのお夢の中から、今日この十九節を頂きましたから、生神金光大神来てくれと云う働きがおかげが修行のときも来て下さって修行させて下さったが、さあおかげを落とそうとしておるときも来て下さったそしてこういうおしらせを頂くのであるから、落とす前に私どもが、ひとつ信心の帯をしなおさなければいけないと思うのですどうぞ。。
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